決意した日
「いまの働き方を変えよう。」
そう決意したのは
健康には気をつかって生きてきたはずの自分に
更年期の症状があらわれたときでした。
ある日、通勤中の電車の中で
急にカーッと熱くなり、汗が流れるように出てきました。
コートを脱いでもマフラーを取っても、一向に収まりません。
「これ……ホットフラッシュ……?」
元々、虚弱とまではいかないけれど
子供の頃から体調不良になりやすかったわたしには
更年期症状のひとつでさえ無視できないインパクトがありました。
「やっぱりいまの働き方は、自分にとって負担なんだ。
このままじゃダメだ、変えないと。。。。。」
だからといって、すぐにどうすればいいかはわからない。
それでもはっきりしたことはひとつ。
自分がそこに行かなくても仕事が成立する
そんな働き方にする必要がある。
自分のために。
身近な人の役に立つことが処世術
東京出身の両親の元、私は三人兄弟の真ん中に生まれました。
父はエネルギー関連の会社のサラリーマンで、母とは社内結婚。
転勤が多く、わたしの幼少のころは
海外も含めて2年おきに引っ越しを繰り返す家庭でした。
私が10歳になるころ、父が都内の実家にマイホームを建てて
それまでの引越し続きの生活が終わります。
その家で中学、高校、大学卒業まで育ちました。
ものごころのつかないうちから10歳までに
幼稚園を2つ、小学校を4つ変わった私の処世術は
「人の役に立つこと」でした。
度重なる転勤に追われた両親を助けるように育てられたので
家では「当たり前」だったこと、例えば
・家事を手伝う
・兄弟仲良く
・ダダをこねない
などをそつなくこなしていれば
大体どこに行ってもすぐに仲の良い友達はできたし
そのコミュニティの大人(先生や、友達の親)に褒められ、可愛がられました。
家では一生懸命やっても叱られることが多かったのですが
家の外では「当たり前」のことを普通にしているだけで
自然と一目置かれ、しっかりしている、よく気がつく、と
友達からも大人からも頼られる自分に、自信を持っていました。
そして何よりも、安心していました。
自分はこれでいいんだ、ここにいていいんだ、という感覚。
わたしの中に、人の役に立てば自分は受け入れられる、
人の要望を察知し、先回りしてそれを叶える
そういうパターンが、自己肯定感とともに根付いていきました。
初めての挫折
小学校を卒業し、地元でも評判の良い公立中学校に進学。
家では母親のご機嫌取りがたいへんだったので
学校は息抜きくらいの感覚で、毎日楽しく通っていました。
同時に、わたしはそのころすでに
・風邪ではない発熱、微熱
・低体温、低血圧
・めまい
・神経性胃炎
・じんましん
・不眠症
・慢性膀胱炎
・便秘
・顎関節症
・極度の冷え性 など
起き上がれない、というほどではないけれども
地味な体調不良があらわれていて
一定のがんばりを超えると調子を崩すことが普通になっていました。
ともあれ、勉強も部活もそれなりの成績を修め、やがて生徒会にも関わるように。
あるとき担任に先生から「おまえならできる!」と言われ
生徒会長に立候補することになりました。
少しどんよりした気持ちを感じながら
「やりたくない」とか「少し考えます」とかそんな選択肢も思い浮かびません。
先生にそう言われたらやるしかない💪
そして、結果は落選。
先生は「どうしてかなぁ」と渋い顔。
わたしは、この世の終わりのような重い足取りで帰宅しました。
先生に言われたから、やったのに。
もう学校なんか行きたくない。
こういう時に学校の屋上から飛び降りたりするのかな。
わたしは恥ずかしさ、悲しさ、戸惑い、悔しさなど
言い表せないほど混乱した思いを胸に抱えながら
家では何もなかったふうを装って
自分の日課である、家の床の雑巾掛けをしました。
「学校でこんなイヤなことがあったよ」
なんて親や兄弟に言える家ではありませんでした。
母は、私のようすを気をかけることもなくいつもどおり
自分の苦労ばなしのあれこれを、私にしゃべっていました。
このことをきっかけに
わたしは大きな葛藤を自覚するようになりました。
それは
自分の本当の気持ちと周りからの期待に、どう折り合いをつけるかという問題。
幼いころから
誰かの役に立つことで自分の安心と居場所を確保してきました。
だからこそ、無理をしてでも他人の要望に応えようとがんばっていました。
「役に立たなければ、自分には存在価値がない」そう思い込んでいたから
疲れても、望んだことではなくても無理をしてやる。
それで人に感謝され、評価されれば一瞬のごほうび自己肯定感があるから
期待に応えれば良いのだと、またがんばる。
これを、家でも外でもやっていました。
おそらくその代償が心身のいろいろな症状にあらわれていたのですが
もともと、場をまとめるのが得意なタイプでもあったので
自分の身を削ってでも
「みんなの役に立つポジション」を手放すことはできませんでした。
でも、いくら他人の期待に100%応えようとしたって所詮ムリなはなし。
それどころか自分が傷つくだけだってこともある。
その現実を初めて思い知ったできごとでした。
人のためにはがんばれるけど‥‥
その後、優良な都立高校に進学。
友人や教師にも恵まれ、充実した高校生活を過ごしました。
けれど、自分の本当の気持ちや望みと
周囲から期待されている(と自分で思い込んでいる)自分像との間の葛藤は大きく
キラキラした高校生活の裏では深く思い悩み、ずっと生きづらさを感じていました。
親子関係が難しかったことも、苦しい要因でした。
毎日毎日、家では親に気をつかい
特に母親を怒らせないよう終始気持ちが張り詰めていて
自分が本当にどうしたいかなんて、考える前にぐったりしていたのと
「この苦労はいつかどこかでかならず報われる」と祈るように信じていました。
わたしの、人のためにがんばりすぎて自分のことはおろそかになる
というパターンは固定化し
高校を卒業して大学、そして社会人になっても
出だしは好走、そのうちがんばりすぎて潰れるサイクルを繰り返していました。
その度に失敗した理由を
まわりやタイミング、体調のせいにしたり、がんばり不足の自分を責めたりして
今度こそは、今度こそはと諦めずにまた同じ努力をしてしまう。
「人のため」といいながら、本当は「自分のため」にやっている
このからくりに気づくのは、あとまだ30年かかるのでした。
2度目の挫折
大学を卒業したわたしは
雑誌編集の仕事を通じて出会った外国籍の男性と結婚。
両親の反対は、若さと情熱で押し切りました。
彼はとても魅力的な人だったのですが、同時に気持ちのアップダウンが激しく
付き合っているころからその大変さに振り回されていました。
結婚すると、わたしの母親がそうだったように
「良い妻」であろうと専業主婦になって奮闘します。
編集の仕事は不規則で拘束時間も長く
不安定な夫を思うと仕事と両立できる自信もなかったし
良い家庭を築くことに全力を注ぎたいという強い思いがありました。
その方法は、やはりここでも同じパターンで
常に夫の要望を叶えることを優先させ、自分はあとまわし。
夫のしあわせが自分のしあわせにつながると信じて疑わずに
夫に合わせることをひたすら、がんばっていました。
それでも、わたし自身が自分を大事にできていないから
「あなた(夫)のために」やっていることにも当然、ひずみが生じます。
夫はちょっとしたことですぐに不機嫌になる。
わたしは「こんなにがんばっているのに!」と不満がたまる。
夫と、わたしの両親との不仲もケンカのタネでした。
そんなことのチリツモから諍いが頻発するようになり
軽〜中度のDVがあらわれた時点で、降参。
関係修復を試みるも平行線のまま、身も心もすりへったわたしは
7年の結婚生活の末、離婚に至りました。
このときも
「相手のためにがんばったのになぜ」という深い挫折感を味わいました。
努力が足りなかったわけじゃない。
むしろ、これ以上できないくらい努力してやりきったのに
何ひとつわたしの手に残らない。
どうしてわたしの人生からしあわせが離れていってしまうの?
思い描いていた人生から
どんどん自分がかけ離れていく、まるで難破船。
離婚は「人生の敗北」とすら感じていていました。
キャリアの再開
離婚後、わたしは再び編集関係の仕事をはじめました。
働くこと自体は好きでしたが、すでに30代半ば。
結婚前に仕事をしていた頃とは違い
自分で自分の生活を支える(おそらくこの先も)ことの現実の重さを
じわじわと感じていました。
そしてこの頃から、体や心の不調も無視できなくなっていました。
20代の頃は思えばいちばんエネルギーがあって
多少の不調も「いつものこと」とそれほど気にせずに過ごしていました。
でも独身になり自分のことを気にする余裕が出てくると
・学生時代の部活のケガの後遺症
・全身の筋力のおとろえ
・軽めのぎっくり腰
・長期的な倦怠感
・深い気分の落ち込み など
結構ガタがきている自分の体に気づきます。
どうにかしないと、と思い立ち、通いやすい近所のヨガ教室を訪ねました。
ヨガは思いがけずとても自分に合っていて、体が軽くなるだけではなく
他人に頼らない自己肯定感や、悩みを手放した穏やかな気持ちを
初めて体感することができました。
心と体を健康に保ちながら収入を得られるなんて最高!と
一生の仕事にするべく一念発起。
貯金を投じて資格を取得し、インストラクターの活動をはじめます。
それまでほそぼそと続けていた編集関係の仕事も
ヨガへの情熱にかき消されるように減ってゆき
インスラクター1本で勝負しようと、覚悟を決めて猛進しました。
ヨガを通じて自分と、そして同じように悩む人のこころと体をととのえる仕事には
大きなやりがいと将来性を感じていました。
けれど経済的には常に大きな不安がありました。
インストラクターとして得られる報酬は
フルに活動しても大卒の初任給にもギリギリ届くか、届かないか程度。
そして、更にレベルをあげようとする度に講習費・研修費・宿泊交通費が必要となり
地道に続けるのにも単純に年月がかかります。
自分の生活を保つこととインストラクターとしてのスキルアップの両立は
想像していなかったたいへんさがあり、別の収入源の必要性を感じていました。
そんな中、知人が経営する事務所で事務補助を求人していると聞き
かつての雑誌編集の経験もいかせそうだったことから
アルバイトとして手伝わせてもらうことになりました。
ヨガと事務職。
2足のわらじで、くる日もくる日もひた走りました。
毎日必ず何かの仕事があって、丸々1日休む「オフの日」なんてありません。
そもそも休む気にもならず
早く自分の仕事を確立し、経済的な余裕を作りたくて
とにかくひたすら仕事をしていました。
そんな状態が数年続いたころ、パンデミックが訪れます。
コロナ禍でヨガのレッスンはすべて中止。
世界中が混乱した状況にショックを受けながらも
何年も働き続けて疲れきっていたわたしは
世の中の動きがすべて止まり、やっと休める理由ができたと
むしろほっとした安堵感が強かったことを覚えています。
ヨガは、このタイミングで
オンラインレッスンに切り替える選択肢もありました。
それでも「辞めるなら今だ」と、大して迷わずヨガを辞める決断をしました。
今の自転車操業を止めて一旦立ち止まりたい。その一心だったと思います。
10年近く情熱を注いできた仕事を終える喪失感の一方
これで少し体力を充電できるという素直なうれしさがありました。
3度目の挫折?
コロナ禍では、知人の事務所での仕事に専念しました。
事務作業のほかサイト運営、広報誌の作成、業務マニュアル作成など
編集経験や企画力をいかせる仕事をどんどん任されるようになり
在宅ワークも取り入れながら、全力で取り組みました。
知人もとても助かると喜んでくれましたし
わたし自身も自分の存在価値を高めようと、芋づる式に何でも引き受けました。
パンデミックが収束し、社会が戻るにつれて
わたしの仕事も在宅ワークから徐々に通勤が増えていきます。
その通勤が、鬼門でした。
通勤は電車とバスを乗り継いで、片道2時間。
徒歩も入れるとドアツードアで2.5時間。
往復するだけで半日が終わってしまいます。
それでも、最初のうちは通勤も仕事のうち、と通勤中にできる作業を工夫したり
半日ロスする分、週末や深夜も仕事をしたり
タクシーを使ったり、ビジネスホテルを利用したことまでありました。
次第に、コロナ禍の在宅ワーク期間中に任された仕事に加えて
通勤先の事務所で発生する様々な対応や段取りもすることになり
わたしが担う業務量は膨大に増えていきました。
相変わらず通勤には時間も労力もかかるため
残業や自宅で仕事をすることも当たり前になり
やがてまた休日のない日々に陥ります。
けれど、40歳をゆうに過ぎてもこれといったキャリアを築けていないわたしは
「ここでがんばらなければ何も成し遂げないまま終わってしまう」と
体調を整えスケジュール組みを徹底しながら、自分を鼓舞し
終わりのない雑務をひとり、次から次へとこなす日々を続けました。
それでも事務所での立場はいつになってもきちんと保証されないまま
都合のいい総合職状態。
現場の緊急対応やトラブル処理に追われ、やるべき仕事が進まない。
仕事のしかたや改善策を相談しても軽くあしらわれる。
業務のたいへんさをアピールすると「そこまでやらなくていいんじゃない?」。
自身の専門だった編集スキルの成長もゼロ。
どうにか捻出した時間でハローワークに行ったり、求人サイトに登録しても
今の年齢、実績では収入の下がる選択肢しかないことに愕然とし
これといった打開策を見出せないまま、鬱症状が進行しました。
知人には、コロナ禍でも変わらず雇ってくれたことを
本当にありがたく思っているけれど
一体何のため、誰のための仕事なのかを完全に見失ってしまい
キャリアの停滞と長時間通勤に奪われる体力や気力に、すっかり疲弊しきっていました。
そして冒頭のホットフラッシュ。
このままではいけない。今の働き方を変えなくては。
というか
自分が変わらなくちゃダメだ。
この負のループパターンから抜け出さない限り
わたしは永遠にしあわせと無縁だ。
働き方も、自分の考え方も、変えなくては。
いまのこの状況を3度目の「挫折」ではなくむしろ3度目の「正直」として
たった今のここから、わたしはわたしをしあわせにする!!!
リモートワークで目指す未来
フリーランス歴25年以上
というと猛者っぽい響きがありますが、私の場合は単なる結果論。
実際は自身の人生や体調に翻弄されながら
非正規雇用でもどうにかがんばって生きながらえてきた、というのが正直なところ。
そうやって50歳を迎えてつくづく感じるのは
時間も、体力も、残酷なまでに有限である、ということです。
これまでのように、自分の時間とエネルギーのすべてを
仕事や誰かにまるっと捧げた結果に夢を託すような生き方は、もうできない。
これからは限りある時間や体力を大切につかって
自分自身に根差し、今も自分も大切にできる、そんな毎日を送りたい。
そう思うようになりました。
例えば今のわたしのしあわせはこんなこと。
・自炊した食事をとる
・1日10分の瞑想をする
・毎日、湯船につかる
・8時間睡眠
・日本の四季を感じる
・月に1度は家族や友達に会う
こうした些細なことをしっかり大事にできるくらしを
自力で守っていける収入、仕事を確保したい。
自分に極端なストレスを掛けずに効率的に働いて安定的な収入を得る
持続可能な働き方はできないだろうか。
それはリモートワークを活用すれば実現できるのではないか。
リモートワークの腕を磨いてキャリアを築く「リモートキャリア」という選択。
それがわたしの答えになりました。
リモートワークだからといって、決してラクな働き方だとは思っていません。
継続的なキャリアを築いていくためには
ひとり親方のようにリスクも自分で背負うことになります。
だから、そのためのスキルや心構えをまなび続けることも必要です。
これからも成長を続け、可能性を広げ
今も、自分も大切にできる働き方、生き方を選びたい。
わたしのこんな思いに、もし少しでも共感いただけたら
このブログをときどきのぞきにきてください。
持続可能なリモートキャリアを築いていくための
具体的な方法と歩みを共有し
より良い未来のためのヒントになればうれしいです。
2025年2月 かや